母の日の歴史を知ろう!お花屋さんが詳しく解説

母の日の歴史を知ろう!お花屋さんが詳しく解説
母の日は古くからある記念日です。でも、母の日がどのようにして生まれたのかを知る人は少ないのではないでしょうか?
こちらの記事では母の日についてを詳しくご紹介!どうしてカーネーションをプレゼントするようになったの?など、一つ一つ細かく解説していこうと思います。
母の日にもっと詳しくなって、お母さんに感謝の気持ちを伝えましょう!
母の日の始まりは?

母の日はお母さんを讃える日。でも実は、お母さんを讃える日自体は、古代の時代から存在しました。
その根本は古代ギリシャの豊穣の女神「レア」を讃える祭りや、古代ローマの母なる女神「キュベレー」を祀るお祭り「ヒラリア」が始めだとされています。
中世ヨーロッパになると「マザリングサンデイ」という宗教的な記念日が生まれ、四旬節の第四日曜日には、信者が生まれ育った教会へ戻る習慣がありました。
自分が生まれ育った教会は「母なる教会」と呼ばれます。このマザリングサンデイが、母に感謝をささげる日となりました。
アン・リーヴス・ジャーヴィスが「母の日」の母?

現在の近代的な母の日の起源は、19世紀のアメリカにあります。
時代は現在から遡って1860年代のアメリカ南北戦争の最中。ウェストバージニア州のアン・リーヴス・シャーヴィスという女性が、「母の日ワーククラブ」という会を設営します。
この会は南北戦争中の貧しい地域を援助して、衛生環境の改善や、病気の予防に尽力したそうです。
南北戦争が終わった後も、北軍と南軍の兵隊たちの和解を促すために「母の友情の日」を開催するなどしました。
「母の日宣言」

その後、1870年には平和活動家のジュリア・ウォード・ハウという方が戦争をなくすために「母の日宣言」を発表します。
そしてその二年後には「母の平和の日」という記念日を提唱し、母親たちが戦争に反対する日としました。
が、この「母の平和の日」は大きな広がりを見せることなく、徐々に存在感を薄めて行きました。
アンナ・ジャーヴィスが母の日を広める!

現在の母の日を広めたのは、アン・リーヴス・ジャーヴィスの娘、アンナ・ジャーヴィスです。
アンナは母のアンが亡くなると、「母を讃える日を作ろう!」と運動を開始します。
そしてウェストバージニア州のグラフトンという場所で母の日の式典を開催します。これが現在の母の日の一番最初の記録です。
その時、お母さんが好きだったお花、白いカーネーションを参加者たちが手向けました。この式典に多くの人が感動し、さまざまな場所で「母の日」をやろう!と広がりを見せていきます。
そして1914年には、当時のアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが「5月の第2日曜日」を正式な国民の祝日に決定!「母の日」が制定されました。
商業化していくが、アンナは複雑だった…?

「母の日」が国民の祝日になると、「お母さんにプレゼントを贈ろう!」とお花屋さんやお菓子屋さんが商業的に利用していくようになります。
しかしアンナは母の日を「純粋な気持ちでお母さんを讃える日」として捉えていたため、商業化には複雑でした。
その後は「母の日」の商業化に大抗議!さらに訴訟を起こすなどの活動にまで発展しましたが、広がりを見せた母の日を止めることができず、
アンナは亡くなってしまいました。
日本における母の日の歴史は?

日本では明治時代の末期ごろに「母の日」を祝う習慣ができたとされています。
主にキリスト系団体を中心に広まりを見せました。その後、1931年には皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日を母の日にしよう!という動きがありましたが。
これはそこまで広がりを見せることはありませんでした。
森永製菓が母の日を全国に広めた?

1926年、大正15年には森永製菓が「母の日」のキャンペーンを開始したことで全国的に母の日が知られるようになりました。
その後、1937年、昭和12年には森永製菓が「全国母の日大会」を開催!これが母の日を決定的に広めたきっかけの一つとなります。
母の日にはお母さんに感謝をして、プレゼントを贈るという文化が根付き、日本人もお菓子やお花をプレゼントするようになっていきます。
国の政策としての「母の日」

1938年、昭和13年には政府の婦人団体である「大日本連合婦人会」という団体が、5月の第2日曜日を「母の日」と正式に定めました。
これに便乗して全国各地のお花屋さんがカーネーションの販売を加速! 「母の日」正式制定がきっかけとなり、花の需要がぐいぐいと高まっていきます。
戦後の母の日について

戦時中は物資不足により、お花を贈る習慣そのものが減少してしまい、「母の日」にお母さんに感謝する文化は衰退しました。
戦後は徐々に「母の日」の文化が復活、1950年代になると百貨店やでデパートが大規模に「母の日ギフト」と「カーネーション」の販促を開始します。
60年代になると日本の生産者さんも母の日に向けたカーネーションの栽培を拡大させていきます。
大体この頃になると母の日=赤いカーネーションというイメージが確率されてきます。
母の日の花の商業史について
上記の通り、母の日とお花のプレゼントは密接に関係しています。
ここではどのようにして母の日にお花を贈る文化が定着していったのか?を細かく解説していこうと思います!
これを読めばより一層母の日についての理解が深まるかも?毎年プレゼントしているカーネーションにも大きな意味が生まれるかもしれませんね。
カーネーションを贈る理由は?

母の日にカーネーションをプレゼントすることになったきっかけは、アンナ・ジャーヴィスが亡き母アン・リーヴス・ジャーヴィスを偲んで、
教会で「白いカーネーション」を配ったことがきっかけだとされています。生前、アンは白いカーネーションが大好きでした。
その後は生きているお母さんには「赤いカーネーション」、亡くなったお母さんには「白いカーネーション」を捧げる文化が的着。
今ではさまざまなカーネーションがプレゼントされていますが、この文化は日本もしばらくの間受け継ぎました。
アンナは母の日に企業が花を売る文化に大反対!

母の日の人気が徐々に高まっていくと、アメリカのお花業界がカーネーションを母の日の花!として大々的に販促をするようになります。
1925年には全米のお花屋さんで母の日のカーネーションが大量に販売されるようになりました。
しかし、アンナは「母の日は純粋に母を讃える日」「企業が利益を得る日ではない」として猛抗議を行います。
そして母の日の商業化を批判して、「カーネーション販売をやめよう!」と訴える運動まで起こしました。
しかしアンナの努力は虚しく、花業界はますます母の日をビジネスチャンスとして捉えて、販促を仕掛けていきました。
戦時中はバラやガーベラを贈っていた?

第二次世界大戦が始まると花の供給が激減します。
そしてカーネーションが大量に手に入らなくなり、母の日にカーネーションが贈られる機会が少なくなりました。
そのため、母の日にはバラやガーベラなどの代用品が販売されるようになり、それなりの人気を博しました。
戦後はさらに花を贈る機運が高まる!

戦後になって経済成長と共に花の出回りが安定すると、今まで通り「母の日」も復活!
カーネーションの需要がさらに高まって、お花屋さんや百貨店を中心にプロモーションが行われるようになります。
そしてカーネーション以外のお花も人気が高まり、60年代になるとフラワーデザインの多様化が進んだ関係で母の日ギフトが充実!
バラやガーベラ、紫陽花といったお花が母の日のプレゼントで人気になります。
80年代には「母の日には花を贈ろう!」というテレビコマーシャルも流れるようになり、大々的に販促が行われました。
今ではオンラインで花を贈るのが普通に

2000年代にはオンラインで注文した商品を、お母さんのお家に直接配送するスタイルが一般的になっていきます。
2010年代にはプリザーブドフラワーも登場。また、アーティフィシャルフラワーといったクオリティの高い造花も登場。
さまざまな需要に合わせて母の日ギフトが開発・販売されるようになっていきます。
近年ではカーネーションにこだわらない「お母さんの好きな花」を贈る方が急増中です!
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Mar 07, 2025